[コロナ] #1 コロナは突然に始まった。
- 2023.07.15
- インドネシア、コロナ禍の記憶
- YUMIKO KASHU
コロナ前夜のスナヤン
2020年3月13日、金曜日、午後6時。日が沈み、昼から夜に急に変わったころ。中央ジャカルタ・スナヤンのブンカルノ競技場(GBK)に人が集まり始める。2018年アジア大会の舞台にもなった競技場は、インドネシア国旗の赤と白に交互にライティングされ、美しかった。暗くなったGBKへ、次々に人が入って行く。会社帰りにちょっと運動しよう、という人たちで、驚くほど賑わっていた。
スタジアム周囲のレーンを高速で駆け抜けて行く自転車集団がいる。大音量の音楽をかけて踊るズンバ、ダンベルやコーンを使ったコアトレーニング、バドミントン、スケートボードなど、いろんなグループが思い思いの運動をしている。この日は、そのうちの一つ、「GBKナイト・ラン」の取材だった。グループの創立者に「なぜ走るのか?」といった話を聞いた。
取材には、会社の同僚やインターン生も同行していた。同僚たちは、貸し自転車でスタジアムの周りを走ったり、オープンエアの店で食事をしたり、金曜の夜を楽しんでいる。取材が終わって、「じゃあ、また来週」と別れた。それからしばらく会えなくなるとは、まったく思ってもいなかった。
コロナ禍の始まり
その前にも、もちろん、コロナの話題はちらほらと出始めていた。2020年は1月25日が中国正月だ。春節明けの感染爆発が恐れられていた。強い警戒感を語る人もいたが、コロナ禍とは、まだ実感のわかないものだった。
2月21日、西ジャカルタのショッピングモール「Neo Soho」で、「Covid-19コロナウイルスを理解し予防する」と題した肺の専門医によるヘルストークがあり、「いま話題のトピックだ」と、聞きに出かけた。ヘルストークの後には、参加者にサージカルマスク一枚ずつが配られた。そのころはまだ、マスクを日常遣いするインドネシア人はほとんどいなかった。初めての「サージカルマスク」を珍しげに手にし、「マスクの表はどちらでしょう? 色が付いている方です」といった説明を聞く、まだそんなレベルだった。
日本からの出張者や来訪者も、まだ、普通に来ていた。2月26日、コロナ禍がすでに始まっていた日本から来た友人と会い、お土産に花粉症対策のマスクをもらった。2月27日には、賀集由美子さんが一時帰国先の日本から戻り、私の家に泊まった。28日と29日、ジャカルタで「ペンギン・マーケット」が開催され、賀集さんは「日本から帰ったばかり」というのを気にして、一人でマスクをしていた。
インドネシアで初めてコロナ感染者が発見された、と発表されたのは、3月2日。デポック在住のインドネシア人2人が陽性になり、それも「日本人からの感染」であるとされ、大騒ぎになった。ジャカルタでは一気に、パニックが広がった。オフィスビルでは急遽、入口での検温と手の消毒を実施する所が出て来た。3月9日には、私の会社のビルでも始まった。私の住んでいるアパートでも、エレベーターホールに消毒液が備え付けられた。
それでも3月13日までは普通に仕事をし、取材に行き、人に会っていた。そして3月15日、日曜日。翌16日からの在宅ワークが決まった。「1週間」という期限だったが、それがキリなく延長されていくことになる。
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